昨日は、移民や外国人の出稼ぎ労働者の貧困な面に光を当ててみたが
インシ アッラーで書きたいのは別の事である。
仕事上仕方なく彼らと組まなければならない時・・・・。
一種の諦めた気持ちで仕事に取り組む。
彼らは仕事のサポートをしてくれるわけではない。
ラテンの人間が仕事真面目などと言うつもりはまったく無いが
アラブのおじちゃん達に比べたら、地獄で天使に出会ったような気持ちになります。
つまり、何事にも例外という物が存在するが、
彼らは筋金入りの怠け者である。
逆に彼らがノーマルな人間だとしたら、やはり日本人は
異常な仕事中毒であろう。
日本人スタッフが10分でやる仕事を20−30分はかけて
流暢にやっていなさる。
ここで、日本人と組ませると仕事上のバランスは
取れるかも知れないが日本人に異常に負担がかかる
それから、仕事が終わると必ず仕事を一人でこなしたような事は言う。
仕事は、雑でいい加減である、およそ考え付けるだけのズルを平気でやるし。
たまにこちらが怒ると、始末に終えず出来る者が出来ない奴の面倒をみるのは
当たり前などと言い始める始末。
お前は出来ないんじゃなくて、やらないんだ
お前のやっている事は、サボタージュだ!と言っても
柳に風、アラブ人に念仏どうしようもありませんでした。
その様な時に、問題を一気に解決するおまじないの言葉があります。
今日はみなさんに、特別に教えてあげます、
「インシ アッラー」。(神の御心のまま)といいます。
アラブ人がこのカードを切ったら、勝負はそれでお仕舞いです。
自分の行動の結果責任は、自分のせいではなく
自分はただ、アッラーの御心のままに行動しているのだから
自分には何の責任も無いと言う事です。
別に彼らは、彼らのルールに従って生きているだけですので
彼らの世界で生きていく分には問題ないのですが。
異教徒の我々と付き合うには問題がありすぎです。
生活の全てが宗教を中心に回っているので
正月神社、葬式仏教の我々には理解するのはまず、無理でしょう。
相互理解の観点からしても、彼らに言わせると
我々は神も信じないで地獄に堕ちる奴らだそうです。
日本には800万柱も、神様が居ると言ったら
驚いて露骨に嫌な顔をされました。
理解したいけど、宗教の壁のために理解できない
深い闇を見たような・・・・。
「インシ アッラー」と呟いてみる。
- 2008/07/20(日) 00:24:08|
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映画「アメリ」。ですっかり有名になった
モンマルトルの丘(晴れた日、サクレクール寺院からの眺めは最高です)
丘を少し下ると ロートレックのポスターで有名な
ムーランルージュのギャレットの赤い風車のあるピガール広場。
そこから少し行くと、いきなり風景が変わります。
パリのバルベス地区は、マルセイユのベルゼンスと並んで
ヨーロッパ最大級のアラブ人街です。
朝夕の礼拝の時間が近づくと、壮大な回教寺院から
アザーン(礼拝へのお誘い)が大音響で響き渡る。
アッラーフ・アクバル
アッラーフ・アクバル
アッラーフ・アクバル
アッラーフ・アクバル
「アッラーは偉大なり」(4回)
(この句はタクビールと呼ばれる。宗派によっては4回でなく2回)
アシュハド・アン・ラー・イラーハ・イラーッラー
アシュハド・アン・ラー・イラーハ・イラーッラー
「アッラーの他に神は無しと私は証言する」(2回)
(この句はシャハーダと呼ばれる)
アシュハド・アンナ・ムハンマダン・ラスールッラー
アシュハド・アンナ・ムハンマダン・ラスールッラー
「ムハンマドは神の使徒なりと私は証言する」(2回)
(この句もシャハーダと呼ばれる。上の句と合わせてシャハーダターニと呼ばれる)
ハイヤー・アラッサラー
ハイヤー・アラッサラー
「いざや礼拝へ来たれ」(2回)
(この句はハイアラと呼ばれる)
ハイヤー・アラルファラー
ハイヤー・アラルファラー
「いざや成功(救済)のため来たれ」(2回)
(この句もハイアラと呼ばれる。上の句と合わせてハイアラターニと呼ばれる)
アッラーフ・アクバル
アッラーフ・アクバル
「アッラーは偉大なり」(2回)
(タクビール)
ラー・イラーハ・イラーッラー
「アッラーの他に神は無し」
(この句はタフリールと呼ばれる)
中近東に旅行された方が回教寺院から、コーランを唱える
声が聞こえたとありますが、実はコーランではなく、ただの礼拝へのお誘いです。
モスリムの方々は1日5回も、礼拝をする。
フランスのレストランなどには、必ずアラブ人か、黒人の回教徒が
下働きの従業員として雇われています。
下働きばかりでかわいそうなどと思っているのは、
あなたが何も知らない日本人だからでしょう。
かれらが国にいて、食うや食わずでいるよりは、フランスで
出稼ぎをして家族を安寧に養ってやれた方がとりあえず安心です。
エトランジェ(外国人)だからと言って差別を受けても
フランスもベルギーも民主国家です。
自分の国のお話しにならない、人権侵害よりはましです。
でも、実際職場で彼らが、虐められているのを見るとけっこう
悲しい思いがしました。
ひどすぎる行為に対しては、同じ?有色人種のよしみで報復をしましたが
(肌の色が無い人なんていないのに不思議な言葉です)
悲しいのは、フランス人もベルギー人も日本人は
自分たちの側だと思っている事でした。
国の力が外国で暮らす人間の処遇を決めてしまうのは事実です。
フランス人と喧嘩する時は、
「お前らがまともに作れるのは、パテとフロマージュぐらいじゃねーか」。で
話しが終わってしまいます。
工業製品では、どうしても太刀打ちできませんでした。
若いアンちゃん達が欲しがる、モトー(オートバイ)は
ホンダであり、カワサキであり。
家にある、まともな電化製品は全て日本製品。
輸出するものは、安価な労働力だけ?の国は可愛そうですが
そんなふうに扱われてしまいます。
その扱いを、決して容認している訳ではありませんが。
彼らは、賄いも違います。
まず、豚肉は食べません、うろこの無い魚も食べれないし
色々様々な宗教上の制約があります。
寺院に行けなくても、時間が来ると礼拝用のタピ(敷物)を
広げてメッカの方を向いて額ずきます、何度も。
外国人の彼らがどうやってメッカの方向を 知るかと言うと
世界のどの場所(南極や北極の極地は無理)にいても
必ずやメッカの方向を指し示すありがたい コンパスがあります。
初めて彼らの礼拝を見たのは、レストランの夜サービスに入る時
着替えの最中に、クボイ(アルジェリア人)がいきなり礼拝を始めた。
こちらは、パンツ1枚だし それでは彼の宗教に対して失礼だろうと
慌ててズボンをはきましたが、何もロッカールームでお祈りをしなくても・・・・。
何気に書き始めましたが、面白くなってきたので
今回もシリーズ物にします。
- 2008/07/19(土) 03:23:19|
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雨が降ります雨が降る 遊びに行きたしかさはなし
紅緒のかっこも緒がきれた
雨が降ります雨が降る いやでもおうちで遊びましょう
千代紙折りましょうたたみましょう
雨が降ります雨が降る けんけん子きじが今ないた
子きじも寒かろさびしかろ
雨が降ります雨が降る お人形寝かせどまだやまむ
お線香花火もみなたいた
雨が降ります雨が降る 昼も降る降る夜も降る
雨が降ります雨が降る
と、言う事で昼も夜も生ゴミをしていました。
書く事がないと言うか、物を考え文章を紡ぐ気力が無いのである。
このまま、腐り果てたくは無いので 精神のリハビリである。
お酒を飲み始めたのは、高校生の時でした
私が通っていた学校はバレーボールが強いと言うか
私達のころ、強くなり始めた。
4年、後輩は全国万年2位(全国優勝は1度もできませんでした
いつも、決勝戦は神奈川県の藤沢高校とフルセットのバトルをやって
一度も勝てませんでした)
春高バレー、インターハイ、国体等は常に代表チームでその分
練習はとてつもなく長く辛くかった。
今考えれば謹慎、退学ものでしょうが大きな大会の後、
反省会と称して私の家で飲んで熱く青春を語っていました。
高校2年の夏休みに、中学の時のバレーの恩師が今夜宿直で一人だから
焼肉をご馳走するから7時過ぎに来るようにと私一人お誘いを受けた。
食べ盛りの若者が(どれだけ食べても体脂肪率は多分5%以下でした)焼肉と言われて行かない訳が無く、
つい二年前までは学ランを着て通っていた中学の宿直室にお邪魔した。
なんだか、とっても良いお肉が山と積まれて
まるで私は、パブロフの犬状態。
先生なぜかとっても、気を利かして私の為にビールを用意して下さった。
それも、大瓶。それも、1ケース。つまり、20本。
「トマースならこれぐらい、軽いだろう」。と言う事で
怒涛の母校の宿直室焼肉パーティが始まりました。
先生「とうきび焼酎」を脇に抱えて、ご自分はちびちびやりながら
私には、飲め飲め!とすすめて下さる。
宿直室も燃えよと言わんばかりの盛大な焼肉も非常に美味しかったし
ビールが美味しくて美味しくて・・・・。
気が付けば早くも大瓶5本が空になり、酒飲みの嫌らしさは
後15本もあるでは無く、後15本しかないと思うから意地汚い。
先生に説教をされたり、先生に議論を吹っかけたり
青春期の不安定な人格を、正常な状態に形成するのには
本当にとても良い『先生』でした。
ただ、話し出すと長い、とても長い。
私は、ビールで水分補給ばかりするので、生理現象が始まり
中学校の暗い不気味な廊下を50mばっかり歩いて、用を足しに行く。
お肉は美味しい、さらにビールが美味い、話が弾む、トイレに10分毎に通う。
先生そのたんびに、話を中断されるのがお気に召さなかったらしく
何度目かの中座に立とうとしたら
「トーマス」。
「ハイ何か」?。
「気にしないから、そこで済ませなさい」。
宿直室の横の窓は、中庭に面していて、先生のありがたい話を
聞きながら、師に背を向けて用を足せと?・・・・・?。
「先生、明日匂いますよ」。
「雨が降っているから気にするな」との事
『3尺下がって師の影を踏まず』のはずなのに、
背を向けて用を足しながら、
先生のお話に返事をするなどと罰当たりな事でした
その頃には、先生も私もかなりのハイテンションで
何故か、いっしょに「リリーマルレーン」を歌いました。
キンキンに冷えた大瓶のビールは約4時間で20本全て
私一人で飲み干しました。
約12分に一本のペース、我ながら呆れます。
帰り道 雨の中を傘を差して、良い気持ちで歩いて帰りました。
「アメガフリマス、アメガフル・・・・」。
生まれて初めての快酔。
あれから、沢山の水がミラボー橋の下を流れていきました。
甲斐 邦一先生はある日、私と同じ病気で窒息、
儚くなって彼岸の彼方に旅立たれました。
そのニュースが知らされた時、私はボース平原のシャルトルと言う町で
毎日ただアップアップしているのが精一杯でした。
- 2008/06/22(日) 23:38:36|
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「男が熱中できるのは、遊びと危険だけである」。ニーチェ
お盆が過ぎてしばらくしてから、白い服を着て山に行き樹液を出している
クヌギの木に登る。
カブトムシだのクワガタムシだのは
もうあまり居ないが、樹液にスズメバチが 集まっている。
静かに細心の注意を払いスズメバチに近づき
予め調達しておいた、殿様蛙の脚やコオロギの新しい
死骸を目の前にそっと置いてやる。
すると、スズメバチ君なんの苦労もせずに転がり込んできた
ご馳走に夢中になる。
どれくらい 夢中かというと体に30cmぐらいの紙縒りの着いた白い糸を
結び付けられても、気が付かないぐらいに夢中です。
私のことなど 一切気にせず大きなあごでバリバリ噛んでいます。
これで最大の危険はクリヤーする。
木から落ちる危険と
自分の不注意から、いたずらに蜂を刺激してしまって刺される危険
そろそろと木から下りて自転車で待機する。
やがて、かわいい妹達に食事を与えようと
健気な姉は 餌を巣に運びます。
そっちに飛んだぞーと仲間に(大抵は、ぱしりの下級生でした)大声で合図をすると、自転車でひたすら大追跡。
蜂は最短距離を三次元的に つまり直線で自分の巣に帰りますが
我々は基本、道の上を二次元的にしか移動できません。
目前には、山あり谷あり田んぼのクリークあり、まるで障害物競走です。
白い紙縒りも1度目は見失ってしまいます。
1回目は大体の方向を、理解します。
しばらくすると、働き者のお姉さんは先ほどの
獲物のところに帰ってきますから
今度は二度目、部隊は前進しています。
こうして、スズメバチの巣の位置を探していきます。
藪の中での捜索ですが、うっかり危険なデッドゾーンまで脚を
踏み入れると 羽音と不気味な『カチカチ』音が聞こえてきます。
目の前には、既に戦闘態勢に入ったスズメバチの姉さん達が
ホバリングをしながら待ち構えています。
『カチカチ』音はこれ以上近づいたら、襲いますよという警戒音です。
いかに、恐ろしいスズメバチでも毒針を使えるのは
一生に一度だけですから、使わないに越した事はありません。
ぱしりのチビッ子達がパニックを起こして
一目散に走って逃げたらアウトです。
走らずに、音を立てずにするする後ろに後退します。
初めに白い服と言ったのは、この時黒い服を着ていると
ほぼ、100%刺されるからです。
里に逃げ帰り子供達のスリリングな、蜂捕りの遊びはここまで
後は、蜂捕りのおじさんに蜂の巣の位置の情報を売って
当時で500円だかの、お小遣いをもらってお仕舞い。
養蜂家にとってスズメバチは天敵です。
スズメバチを駆逐できる、日本ミツバチは蜂蜜は少ししか取れませんのでどうしても西洋ミツバチになります。
哀れな、スズメバチを駆除してしまうのが、生態系にどう影響するのか
解りませんが、うっかり刺されて死ぬよりは良いのかも
それに蜂の子のバター炒めは、本当に美味しいですよ。
(結局食べる事かよ)
なぜか、私ににはいつもがちゃバエ(小さい子供)が
ついてくるなといっても2−3匹はゴチャゴチャくっ付いていたので
手下の分け前として、50円のアイスクリームを買ってやると
いくらも残らなかった。
今考えると、不思議な事に6年生から、1年生までいっしょに連れ立って
遊び呆けていました。
今の子供達は、同学年がファミコンを持って友達の家に行き
おとなしく黙って対戦ゲームをしていますが
私が子供の頃は毎日、傷だらけの泥だらけでしたが 年下は年上に服従するし
年上は年下を保護していました。
昔も今のように、いじめはあったと思いますが
いわれの無い、虐待は年上の生徒がきっちり仕返しを
(いつも喧嘩をしていますから、どれくらいの力で
人を殴ったらどうなると言う事は身をもって知っていました。
喧嘩をして育たない今の子供達が時として
行き過ぎた暴力に走るのもそこら辺に問題もあるかと思います。)
していましたから、上級生の傘の下で今よりは
安心でいられたのではないかと思います。
さて、家に帰り縁側でゴロゴロしながら蜂に紙縒りを
結びつけた事を思い出すと、身の毛もよだつ
あの時、連れまわしていたちびっ子の誰かがアナフィラキシーで
うっかり蜂に刺されていたら・・・・・。
今考えても恐いです。
でも、男が熱中する遊びは、大抵かなり危険な遊びですし
危険も時として遊びに変えてしまいますが。
男が熱中できるのは、遊びと危険だけである
その男に、神が与えたもっとも危険な玩具は お・ん・な。と言う説もありますが。
- 2008/06/09(月) 19:33:42|
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スタインベックの短編集に『朝飯』という傑作があった。
アメリカ南部の農園に帰ってきたのか、訪れたのか解らないが
一人の若者に綿花畑で働く農夫が
朝飯をご馳走してやる話しだったが
その脂の中ではぜるベーコンやパン、コーヒーのうまそうな香り
ただ、それだけの話しが10ページにも満たない、短編と言うより
掌小説と呼んだ方が良い様な短さで綴ってあった。
読んだ後で、唸ってしまったほどに見事。 でした
昔、パリで不良外人をしていた頃、
明け方まで遊び呆けて、一人暮らしの安ホテルに
帰る道端で、一人の妖精に会った。
彼女は私を認めて、にやりと笑い
「チャーワン#$&=”!=&#$”」?と話しかけてきた
何だか小鳥がさえずっているような言語
中国語に似てはいるものの違っていた。
「パルドン マドモワゼル ジュ ヌ コンプランパ シノワ」
(お嬢さん悪いけど中国語は解りません)と言うと
突然完璧なフランス語に切り替わり、「ごめんなさいタムさんじゃないんですね
あなたがあまりにも私の女友達のお兄さんに似ていたもので間違えました
それに私が話しているのはベトナム語で決して中国語ではないわ」。
ときっぱり
彼女の名前はホワさん、ベトナムでは日本の花子や洋子と同じぐらいポピュラーな名前です。
(ベトナム語で花はホアになります、私は彼女をハナと呼んだ、
なぜか私はタムにされてしまいましたが)
「中近東の人には良く間違えられるけど、ベトナム人に間違えられたのは初めて」。と
伝えると、ゲラゲラ笑って所で何人なの?
チュニジア人?モロッコ人?
パリジャンだと、答えたらあなたがパリジャンなのは解るけど
オリジナルは何処なのと、聞くので「日本」。とだけ答えた。
「時間ある」?。と聞くと「少しだけなら」。と言ったので
猛烈に眠かったけど二人でカフェに行き
延々と話しをした、細い樹の上で出会った二匹の昆虫が
触覚を二回コツコツと合わせただけで
すぐに、お互いを理解したように打ち解けた。
何度か逢瀬を重ねていつの間にやら都合の合う
週末はどちらかの、家に泊まると言った
いかにもフランス的な生活が始まった。
彼女はその時はまだ、倒産していなかったパンナムの
キャビンアテンダント、実家はベトナム料理屋を2軒も
経営するやり手のご両親、お兄さんと、妹が居た
何度か彼女に連れられて、お店で食事をご馳走になって
色々とお話しを聞いているうちに
それまでは、皆目知らなかったベトナムとフランスと日本の関係
などが少しずつ解ってきた。
なぜ、フランスにベトナム人やカンボジア人が多いのか
ヴェトミンとヴェトコンはどう違うのか?
この100年インドシナ半島で何が起きていたのか?
枯葉剤で今も苦しむ人たちが 沢山いることも
すぐ近くなのに何も知りませんでした。
「カフェオーレにクロワッサンも良いけど ベトナムの朝ごはんて何を食べるの」?。
ある晩そう訊ねると、彼女はニタニタ笑って
「朝はファ(フォーの事)かチャオ(お粥の事)よ、食べたいの」?。
と珍しく言ってくれたので(殆ど料理はしない方でしたので)是非と言ったら、
「今日は何も無いから 今度お店からかっぱらってきて作ってあげる」と。嬉しい返事。
で、次の日曜の朝 店からくすねてきた牛のブイヨンにニョクマム
塩、味の素で味付けして生の牛肉と玉葱を薄くスライスして
ミント、シャンツアイ、小葱をちぎる
1時間水に浸けて戻したクイティオ・セン・ヤン(きしめん状の麺)を
さっと茹でて、なぜかカフェオレのどんぶりに入れて
先ほどの薬味と牛肉をのせ、熱々のスープを注いで
サイドにダラット野菜を沢山そえる。
(ヴェトナムのダラット市は高原で 野菜の名産地、ベトナム料理に添えられる生野菜をパリではそう呼ぶ、決してダラット市から来た野菜ではないけど)
麺は、すすりませんでしたが(彼女は一応フランス人らしいので)
麺を食べ、生の牛肉のスライスは熱々のスープで
しゃぶしゃぶ状になり、ミント、香菜、小葱との香りの
組み合わせも素晴らしく、途中からダラット野菜をスープに
沈めて食べろと言う、生でも無し温野菜でもない温かいサラダ?
未経験な味が変化しながら持続している、はっきり言って
とても美味しい、開高大兄ぐらい言葉を操れたら
もっと、素晴らしい描写ができるのに。
なぜか、パリのアパルトマンでヴェトナムの朝ごはんを
食べた不思議な朝でした。
このフォー 最近は殆ど作らなくなりましたが 4年前ぐらいまで私の店の賄いで良く作りました。
そのフォーの名前は『フォー・ダイ』。と言います。
それから、1年後彼女とは別れてしまいました。
お互いがお互いをあまりにも、干渉してお互いを貪りすぎたせい?
ヴェトナム料理はとっても好きだけど、今では殆ど行く事も無くなりました。
先日、偶然見つけたアルバムの たった1枚きりの彼女の写真は、
今でもこれ以上幸せはないような顔をして微笑んでいますが。
- 2008/05/27(火) 16:43:40|
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