シェフの戯言 黒いページ

リストランテ・ロアジのまわりで起きた様々な出来事を少し辛口につづってみました。

雨が降ります、雨が降る。

雨が降ります雨が降る 遊びに行きたしかさはなし 
   紅緒のかっこも緒がきれた
 
雨が降ります雨が降る いやでもおうちで遊びましょう
   千代紙折りましょうたたみましょう
 
雨が降ります雨が降る けんけん子きじが今ないた
   子きじも寒かろさびしかろ
 
雨が降ります雨が降る お人形寝かせどまだやまむ
   お線香花火もみなたいた
 
雨が降ります雨が降る 昼も降る降る夜も降る
   雨が降ります雨が降る

と、言う事で昼も夜も生ゴミをしていました。
書く事がないと言うか、物を考え文章を紡ぐ気力が無いのである。
このまま、腐り果てたくは無いので 精神のリハビリである。


お酒を飲み始めたのは、高校生の時でした
私が通っていた学校はバレーボールが強いと言うか
私達のころ、強くなり始めた。
4年、後輩は全国万年2位(全国優勝は1度もできませんでした
いつも、決勝戦は神奈川県の藤沢高校とフルセットのバトルをやって
一度も勝てませんでした)
春高バレー、インターハイ、国体等は常に代表チームでその分
練習はとてつもなく長く辛くかった。
今考えれば謹慎、退学ものでしょうが大きな大会の後、
反省会と称して私の家で飲んで熱く青春を語っていました。


高校2年の夏休みに、中学の時のバレーの恩師が今夜宿直で一人だから
焼肉をご馳走するから7時過ぎに来るようにと私一人お誘いを受けた。
食べ盛りの若者が(どれだけ食べても体脂肪率は多分5%以下でした)焼肉と言われて行かない訳が無く、
つい二年前までは学ランを着て通っていた中学の宿直室にお邪魔した。


なんだか、とっても良いお肉が山と積まれて 
まるで私は、パブロフの犬状態。
先生なぜかとっても、気を利かして私の為にビールを用意して下さった。
それも、大瓶。それも、1ケース。つまり、20本。
「トマースならこれぐらい、軽いだろう」。と言う事で
怒涛の母校の宿直室焼肉パーティが始まりました。
先生「とうきび焼酎」を脇に抱えて、ご自分はちびちびやりながら
私には、飲め飲め!とすすめて下さる。
宿直室も燃えよと言わんばかりの盛大な焼肉も非常に美味しかったし
ビールが美味しくて美味しくて・・・・。


気が付けば早くも大瓶5本が空になり、酒飲みの嫌らしさは
後15本もあるでは無く、後15本しかないと思うから意地汚い。
先生に説教をされたり、先生に議論を吹っかけたり
青春期の不安定な人格を、正常な状態に形成するのには
本当にとても良い『先生』でした。
ただ、話し出すと長い、とても長い。
私は、ビールで水分補給ばかりするので、生理現象が始まり
中学校の暗い不気味な廊下を50mばっかり歩いて、用を足しに行く。
お肉は美味しい、さらにビールが美味い、話が弾む、トイレに10分毎に通う。
先生そのたんびに、話を中断されるのがお気に召さなかったらしく
何度目かの中座に立とうとしたら
「トーマス」。
「ハイ何か」?。
「気にしないから、そこで済ませなさい」。
宿直室の横の窓は、中庭に面していて、先生のありがたい話を
聞きながら、師に背を向けて用を足せと?・・・・・?。
「先生、明日匂いますよ」。
「雨が降っているから気にするな」との事
『3尺下がって師の影を踏まず』のはずなのに、
背を向けて用を足しながら、
先生のお話に返事をするなどと罰当たりな事でした



その頃には、先生も私もかなりのハイテンションで
何故か、いっしょに「リリーマルレーン」を歌いました。
キンキンに冷えた大瓶のビールは約4時間で20本全て
私一人で飲み干しました。
約12分に一本のペース、我ながら呆れます。
帰り道 雨の中を傘を差して、良い気持ちで歩いて帰りました。
「アメガフリマス、アメガフル・・・・」。


生まれて初めての快酔。
あれから、沢山の水がミラボー橋の下を流れていきました。
甲斐 邦一先生はある日、私と同じ病気で窒息、
儚くなって彼岸の彼方に旅立たれました。



そのニュースが知らされた時、私はボース平原のシャルトルと言う町で
毎日ただアップアップしているのが精一杯でした。 
  1. 2008/06/22(日) 23:38:36|
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男が熱中できる事

「男が熱中できるのは、遊びと危険だけである」。ニーチェ

お盆が過ぎてしばらくしてから、白い服を着て山に行き樹液を出している
クヌギの木に登る。
カブトムシだのクワガタムシだのは
もうあまり居ないが、樹液にスズメバチが 集まっている。
静かに細心の注意を払いスズメバチに近づき
予め調達しておいた、殿様蛙の脚やコオロギの新しい
死骸を目の前にそっと置いてやる。
すると、スズメバチ君なんの苦労もせずに転がり込んできた
ご馳走に夢中になる。
どれくらい 夢中かというと体に30cmぐらいの紙縒りの着いた白い糸を
結び付けられても、気が付かないぐらいに夢中です。
私のことなど 一切気にせず大きなあごでバリバリ噛んでいます。


これで最大の危険はクリヤーする。
木から落ちる危険と
自分の不注意から、いたずらに蜂を刺激してしまって刺される危険
そろそろと木から下りて自転車で待機する。
やがて、かわいい妹達に食事を与えようと
健気な姉は 餌を巣に運びます。
そっちに飛んだぞーと仲間に(大抵は、ぱしりの下級生でした)大声で合図をすると、自転車でひたすら大追跡。
蜂は最短距離を三次元的に つまり直線で自分の巣に帰りますが
我々は基本、道の上を二次元的にしか移動できません。
目前には、山あり谷あり田んぼのクリークあり、まるで障害物競走です。

白い紙縒りも1度目は見失ってしまいます。
1回目は大体の方向を、理解します。
しばらくすると、働き者のお姉さんは先ほどの
獲物のところに帰ってきますから
今度は二度目、部隊は前進しています。
こうして、スズメバチの巣の位置を探していきます。


藪の中での捜索ですが、うっかり危険なデッドゾーンまで脚を
踏み入れると 羽音と不気味な『カチカチ』音が聞こえてきます。
目の前には、既に戦闘態勢に入ったスズメバチの姉さん達が
ホバリングをしながら待ち構えています。
『カチカチ』音はこれ以上近づいたら、襲いますよという警戒音です。
いかに、恐ろしいスズメバチでも毒針を使えるのは
一生に一度だけですから、使わないに越した事はありません。
ぱしりのチビッ子達がパニックを起こして
一目散に走って逃げたらアウトです。
走らずに、音を立てずにするする後ろに後退します。
初めに白い服と言ったのは、この時黒い服を着ていると
ほぼ、100%刺されるからです。


里に逃げ帰り子供達のスリリングな、蜂捕りの遊びはここまで
後は、蜂捕りのおじさんに蜂の巣の位置の情報を売って
当時で500円だかの、お小遣いをもらってお仕舞い。
養蜂家にとってスズメバチは天敵です。
スズメバチを駆逐できる、日本ミツバチは蜂蜜は少ししか取れませんのでどうしても西洋ミツバチになります。
哀れな、スズメバチを駆除してしまうのが、生態系にどう影響するのか
解りませんが、うっかり刺されて死ぬよりは良いのかも
それに蜂の子のバター炒めは、本当に美味しいですよ。
(結局食べる事かよ)


なぜか、私ににはいつもがちゃバエ(小さい子供)が
ついてくるなといっても2−3匹はゴチャゴチャくっ付いていたので
手下の分け前として、50円のアイスクリームを買ってやると
いくらも残らなかった。
今考えると、不思議な事に6年生から、1年生までいっしょに連れ立って
遊び呆けていました。
今の子供達は、同学年がファミコンを持って友達の家に行き
おとなしく黙って対戦ゲームをしていますが
私が子供の頃は毎日、傷だらけの泥だらけでしたが 年下は年上に服従するし
年上は年下を保護していました。
昔も今のように、いじめはあったと思いますが
いわれの無い、虐待は年上の生徒がきっちり仕返しを
(いつも喧嘩をしていますから、どれくらいの力で
人を殴ったらどうなると言う事は身をもって知っていました。
喧嘩をして育たない今の子供達が時として
行き過ぎた暴力に走るのもそこら辺に問題もあるかと思います。)
していましたから、上級生の傘の下で今よりは
安心でいられたのではないかと思います。


さて、家に帰り縁側でゴロゴロしながら蜂に紙縒りを
結びつけた事を思い出すと、身の毛もよだつ
あの時、連れまわしていたちびっ子の誰かがアナフィラキシーで
うっかり蜂に刺されていたら・・・・・。


今考えても恐いです。
でも、男が熱中する遊びは、大抵かなり危険な遊びですし
危険も時として遊びに変えてしまいますが。


男が熱中できるのは、遊びと危険だけである
その男に、神が与えたもっとも危険な玩具は お・ん・な。と言う説もありますが。
  1. 2008/06/09(月) 19:33:42|
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記憶に残る朝飯。フォー

スタインベックの短編集に『朝飯』という傑作があった。

アメリカ南部の農園に帰ってきたのか、訪れたのか解らないが
一人の若者に綿花畑で働く農夫が
朝飯をご馳走してやる話しだったが
その脂の中ではぜるベーコンやパン、コーヒーのうまそうな香り
ただ、それだけの話しが10ページにも満たない、短編と言うより
掌小説と呼んだ方が良い様な短さで綴ってあった。
読んだ後で、唸ってしまったほどに見事。 でした


昔、パリで不良外人をしていた頃、
明け方まで遊び呆けて、一人暮らしの安ホテルに
帰る道端で、一人の妖精に会った。

彼女は私を認めて、にやりと笑い
「チャーワン#$&=”!=&#$”」?と話しかけてきた
何だか小鳥がさえずっているような言語
中国語に似てはいるものの違っていた。

「パルドン マドモワゼル ジュ ヌ コンプランパ シノワ」
(お嬢さん悪いけど中国語は解りません)と言うと
突然完璧なフランス語に切り替わり、「ごめんなさいタムさんじゃないんですね
あなたがあまりにも私の女友達のお兄さんに似ていたもので間違えました
それに私が話しているのはベトナム語で決して中国語ではないわ」。
ときっぱり
彼女の名前はホワさん、ベトナムでは日本の花子や洋子と同じぐらいポピュラーな名前です。
(ベトナム語で花はホアになります、私は彼女をハナと呼んだ、
なぜか私はタムにされてしまいましたが)


「中近東の人には良く間違えられるけど、ベトナム人に間違えられたのは初めて」。と
伝えると、ゲラゲラ笑って所で何人なの?
チュニジア人?モロッコ人?
パリジャンだと、答えたらあなたがパリジャンなのは解るけど
オリジナルは何処なのと、聞くので「日本」。とだけ答えた。


「時間ある」?。と聞くと「少しだけなら」。と言ったので
猛烈に眠かったけど二人でカフェに行き
延々と話しをした、細い樹の上で出会った二匹の昆虫が
触覚を二回コツコツと合わせただけで
すぐに、お互いを理解したように打ち解けた。


何度か逢瀬を重ねていつの間にやら都合の合う
週末はどちらかの、家に泊まると言った
いかにもフランス的な生活が始まった。


彼女はその時はまだ、倒産していなかったパンナムの
キャビンアテンダント、実家はベトナム料理屋を2軒も
経営するやり手のご両親、お兄さんと、妹が居た



何度か彼女に連れられて、お店で食事をご馳走になって
色々とお話しを聞いているうちに
それまでは、皆目知らなかったベトナムとフランスと日本の関係
などが少しずつ解ってきた。
なぜ、フランスにベトナム人やカンボジア人が多いのか
ヴェトミンとヴェトコンはどう違うのか?
この100年インドシナ半島で何が起きていたのか?
枯葉剤で今も苦しむ人たちが 沢山いることも
すぐ近くなのに何も知りませんでした。

「カフェオーレにクロワッサンも良いけど ベトナムの朝ごはんて何を食べるの」?。
ある晩そう訊ねると、彼女はニタニタ笑って
「朝はファ(フォーの事)かチャオ(お粥の事)よ、食べたいの」?。
と珍しく言ってくれたので(殆ど料理はしない方でしたので)是非と言ったら、
「今日は何も無いから 今度お店からかっぱらってきて作ってあげる」と。嬉しい返事。
で、次の日曜の朝 店からくすねてきた牛のブイヨンにニョクマム
塩、味の素で味付けして生の牛肉と玉葱を薄くスライスして
ミント、シャンツアイ、小葱をちぎる
1時間水に浸けて戻したクイティオ・セン・ヤン(きしめん状の麺)を
さっと茹でて、なぜかカフェオレのどんぶりに入れて
先ほどの薬味と牛肉をのせ、熱々のスープを注いで
サイドにダラット野菜を沢山そえる。
(ヴェトナムのダラット市は高原で 野菜の名産地、ベトナム料理に添えられる生野菜をパリではそう呼ぶ、決してダラット市から来た野菜ではないけど)


麺は、すすりませんでしたが(彼女は一応フランス人らしいので)
麺を食べ、生の牛肉のスライスは熱々のスープで
しゃぶしゃぶ状になり、ミント、香菜、小葱との香りの
組み合わせも素晴らしく、途中からダラット野菜をスープに
沈めて食べろと言う、生でも無し温野菜でもない温かいサラダ?
未経験な味が変化しながら持続している、はっきり言って
とても美味しい、開高大兄ぐらい言葉を操れたら
もっと、素晴らしい描写ができるのに。
なぜか、パリのアパルトマンでヴェトナムの朝ごはんを
食べた不思議な朝でした。



このフォー 最近は殆ど作らなくなりましたが 4年前ぐらいまで私の店の賄いで良く作りました。
そのフォーの名前は『フォー・ダイ』。と言います。


それから、1年後彼女とは別れてしまいました。
お互いがお互いをあまりにも、干渉してお互いを貪りすぎたせい?
ヴェトナム料理はとっても好きだけど、今では殆ど行く事も無くなりました。
先日、偶然見つけたアルバムの たった1枚きりの彼女の写真は、
今でもこれ以上幸せはないような顔をして微笑んでいますが。
  1. 2008/05/27(火) 16:43:40|
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天長節

さて、今日はゴールデンウイーク最初の祝日。


『みどりの日』ですが
元々は昭和天皇のお生まれになった日で
ご在位の時は天皇誕生日と呼ばれていた祝日でした。

天皇陛下の誕生日の事を、『天長節』。と言います。
我々下々には、縁の無い天長節などという
難解な日本語をなぜ、私が知っているかと言うと。

昔、ブリュッセル市にあるふたつの、在外公館
(つまりは、大使公邸の事です)に居た時
1年で一番忙しいのがこの日だったからです。


EUの代表部(日本国はベルギーに対して、特命全権大使を
2名派遣しています。ベルギー及びルクセンブルグ公国の
大使が1名、EU<欧州連合>に対して1名です)
では、その日はお休みですが、通常の日本大使館では
陛下の慶賀を祝うお客様で1日中、ごったがえします。


日本大使館といっても、通常の事務を行なう所と
大使の公邸は別にあります。
私が働いていたのは、公邸の方で大使館職員のために
従業員食堂の運営をしていたわけではありませんので。


大使公邸とは簡単に言うと、我々の血税で建てた 
または買い取ったお城に様な建物です。
れせぷちょん詳しくは「大使閣下の料理人」というコミックが発売されていますので
そちらを、ご一読下さい。


閑話休題。
レセプションパーティの人数は 約1週間前にはっきりします。
毎年約800名ぐらいでしょうか?

その日ばかりは、レセプションのお料理は日本料理となります。
必ず用意しなければならないのが、焼き鳥とてんぷらでした。
常駐のメイドさん2名+臨時のメイドさん2名+私で
レセプションの下処理と、準備をします。


海老だけで約4,000匹を、殻を剥き、切込みを入れて
延ばしてとりあえず、冷凍庫に。

焼き鳥も約2,000本串に刺して冷凍します。
不本意な仕事ですが、天長節で決して事故があっては
ならないのです。


さて当日ですが、シャンパーニュ(ヴァン・ムースか、カヴァでしたが)カクテルその他色々な飲み物、料理はカナッペ、焼き鳥
てんぷら、小菓子ぐらいでしょうか?

てんぷらはEUの代表部から1名ヘルプが来て、二人で3時間揚げ続けます。

そのうち、キッチンにジャンダムリー(日本で言えば機動隊みたいな方
当日のテロに対しての警護をしてくれます。)のみなさんが
何か飲ませて、食べさせてとやって来ます。


もちろん、彼らは勤務中にお酒を飲みます。
日本の一般常識からすると、警官が仕事中にお酒を飲むなんて
考えられませんが、そんなものです。
深く考えるのは、すぐに止めました。


怒涛の如く3時間のレセプションは終わり、我々料理スタッフはクタクタ
なんですが・・・・。

それから、大使館員の夕食会があります。
彼ら、職員もその日は慣れない、接客や配車係り、案内をしてくれますので
お疲れさん会なのですが、予算はありませんので
レセプションの予算を流用することとなりますが、深くは
考えませんでした、そんな事を考えていると頭が痛くなります。

普段は公邸のディナーの、御呼ばれに預からない 
理事官やローカルのスタッフまで来ていますので約60名ぐらい。



800名のレセプションをやった後で、60名のディナーは
はっきり言って、辛すぎました。


「天長節」の思い出は、辛く長い1日という記憶だけ。
  1. 2008/04/29(火) 02:08:06|
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バンブーダンス

朝。
『宅急便でーす』。と言って小包が届く
小包とはいっても10kg近くあるので大包みではあるが・・・・。

母に野菜を(店で使う野菜の一部を作ってもらっているので)
頼んだ憶えも無いし。


差出人の欄には 熊本、渡辺の文字が。
渡辺君は私のパティシエーの最後の弟子でした。
若いのに腕も良く、私の元を辞してからは
大手のお菓子屋さんの商品開発など、彼には向かない
仕事を我慢して続けていたのですが。
2年前ついに痺れを切らして、独立を果たしました。
二度ほど、遊びに行ってお菓子をあれこれ
食べましたが中々の出来で、弟子が一人前に独り立ちして
近所でも評判のお店になっているととても嬉しいです。


さて箱の中身であるが、今年も着ました。
採れたての竹の子が土付きでぎっしりと
ダンボールの中に入っていました。

実は私は両親の実家の宮崎に竹山があり、
欲しければいくらでも、送ってもらえるのですが
彼が毎年送ってくれるので
実家からはしばらく、送ってもらうのを遠慮してもらっています。


糠か米のとぎ汁が必要だけど、あくを抜けばよいので
大量の水で下茹でをしました。
コーンに似た甘い香りの竹の子、穂先の柔らかい部分を
夕ご飯のゲーン・ペット・ガイ(タイ風鶏肉のレッドカレー)に
入れて食べたらとても美味しく頂けました。

私としては、一番出しで若布と炊き合わせた物に
木の芽をてんこ盛りにして食べるのが一番好きですが。


バンブー・ダンス
ある年「ベルギーにおける、フィリッピン月間」。というイヴェントが
首都のブリュッセルで行なわれた。


その時我が家の掃除を週代わりでやってくれていた
2人のフィリピン人のメイドさんも、フェスティバルに
出演するから ぜひ見に来て下さいとせがまれて
彼女達の踊る「バンブー・ダンス」の練習場まで見に行った。

なんせ、南国の陽気な人達ばかりですから
艶やかな民族衣装に身を包み 踊る姿はセクシーで
なかなか、目の保養には素晴らしい眺め!
(純粋にきれいなだけでしたが)


そのうち、教えますから一緒に踊りましょうと言われて・・・・。


若いって素晴らしい、今なら恥ずかしくてお断りするのに
当時はいっしょになって踊った。
タガログ語は解らないから英語かフランス語にしてと、
何度お願いしても興奮した彼女達は 
タガログ語で容赦なく話しかけてくる。


時々「バッキャロー」。(馬鹿野郎の事、日本兵が進駐して
誰かれなく罵ったので、今では立派なフィリピン言葉)が
言葉のアクセサリーとして、会話の中にちりばめられて
複雑な気持ちです。

結局私は「バンブー・ダンス」は上手くなりませんでした
なぜなら、あの踊りはテンポが上がると必ず
バンブー(竹)に足を絡め取られるからです。

さて、式の当日マニラから呼び寄せたプロのダンサーの
足捌きの美しい事。
竹の子を食って、南の島の踊りが懐かしくなる私って何?


その時のメイドさん「リンダさんとメール」は運良く
カナダに移民の許可が下りて。
晴れて熱帯の貧困の生活から抜け出す事ができたが。


時々、カナダで彼女達が幸せに暮らしている事を
祈らずにはいられない。
  1. 2008/04/15(火) 13:55:18|
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